バンクーバー新報 ~バンクーバー国際マラソン感動秘話~「ジャパニーズ・テリー・フォックス!」
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~バンクーバー国際マラソン感動秘話~
「ジャパニーズ・テリー・フォックス!」
両足義足でフルマラソン完走を遂げた沖縄のランナー
島袋勉さん (先月28日、滞在先のホテルで) |
義足に松葉杖でもスピードは速い。 小走りでも追いつかないほど |
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今月1日に行われたバンクーバー国際マラソンには、日本からも多くの人々が参加した。その中に、4年前に踏切事故で両足を失った島袋勉さん(42)の姿もあった。義足と松葉杖で走る42.195キロは、想像を遥かに超える壮絶な戦いである。そしてその勇姿は、ウェブで島袋さんの参加を知った日本人留学生たちをも巻き込み、感動ストーリーを生み出した。
ブログに残したコメントから広がった輪
夫がバンクーバーへ行くと知り、妻のジュンコさんはネットでいろいろ検索した。そして留学生の加藤優子さんのブログ(ウェブ上の日記)に辿り着き、コメントを入れた。「主人を応援してください」。
加藤さんから友人の松田義範さんへ伝えられた島袋さんのマラソン参加の話は、ウェストコースト国際教育相談センターに出入りする学生を中心に、駆け巡る。「そんなすごい人がいるなら会ってみたい。応援したい!」。松田さんが音頭を取り、20名以上が応援参加に名乗り出た。前日に打ち合わせを行い、当日は交代で併走しながら、荷物の運搬や休憩場所の確保、ビデオ撮影等、携帯で連絡を取りながら連携して島袋さんをサポートした。
前回の記録を4時間以上短縮!
当日朝6時半、フルマラソンのウォーカーがスタート。島袋さんと伴走するのは中学時代からの友人で、島袋さんの会社のスタッフでもある長堂朝敏(ながどう・ともとし)さんだ。後からスタートしたランナー達が皆、島袋さんを激励してゆく。「ジャパニーズ・テリー・フォックス!」の声もあった。近隣のアパートからも声援が飛ぶ。折り返して来る島袋さんを再度出迎え、どこで調べたのか「日本人は1番です!」と、日本語で声を掛ける人もいた。
18キロを超えた辺りで、島袋さんの片足の痛みがピークとなる。ペースは落ちたが「完走できないかもしれない」という気持ちは不思議と起こらなかった。不調の足をはずして片足義足で走り続けようかとも考えたが、多くの人々の応援に元気付けられ、徐々にペースを取り戻し、ホノルルの記録を4時間以上も縮める8時間40分44秒でゴールした。
レース後も、余裕の笑顔さえ残っていた島袋さん。だが、ここまで来るには苦しみや困難が山のようにあった。
北米大陸を単身往復縦断!その帰途で
島袋さんにとって、今回は2度目のバンクーバーである。4年半前、単身北米大陸を縦断した際、最初に降り立ったのがバンクーバーであった。そこからレンタカーでメキシコ付近まで行き、帰路はなんとイエローナイフまで足を伸ばした。全走行距離1万数千キロをほとんど休憩もせず、走り抜けた。強靭な体力と精神力の持ち主である。
滞在の目的は、新しく手掛ける事業のための視察。沖縄で自家用車のメンテナンス会社「ラシーマ」を経営する島袋さんは、得意のコンピューター分野を生かしたIT関連部門を展開する勉強のために、北米を訪れたのだ。20歳の時に会社を立ち上げ、間もなく業績の悪かった父の会社を買収する形で救済するほど、島袋さんは経営センスに長けていた。
人生を変える事故はその北米視察の帰りのことだった。バンクーバーから沖縄への直行便が無いため、いったん成田へ飛んだはずだが、記憶は事故前後3日間ほど抜け落ちている。気付いたら病院のベッドの上だった。
消え去った記憶と失った両足
警察の調べでは、島袋さんは船橋のホテルにチェックインしており、夜、外出した時に踏み切りで転倒、電車にひかれたとみられている。アルコールは検出されず、目撃者もいないため、詳しい真相は闇のままとなった。以前から危険といわれてきたその踏み切りは、島袋さんの事故後改修され、高架橋となった。
チューブだらけのベッドの上で記憶が戻った島袋さんは、初め、状況が把握できなかった。足元には白い布が掛けてあるのが見えたが、足を失ったことには気付かなかった。寝返りをうとうとしたができず、足が無いことを知った。
そして間もなく『幻肢痛』という、無いはずの足が痛む症状に襲われる。「右足の親指が痛い」「左のくるぶしが締め付けられる」といった脳が記憶する幻の痛みに鎮痛剤は効かない。頭が狂いそうだった。また、事故の際に頭部を強打した影響による脳障害も深刻で、「歩けないのでは。仕事もできないのでは」と思い、島袋さんは無気力になった。
頚椎損傷の患者に感銘、前向きに
同じ病院に頚椎を損傷した初老の男性がいた。その男性は電動車椅子に乗り、手足と胴体を固定し、ジョイスティックを唯一動く口で操作していた。後ろを振り向くこともできないため、車椅子には両サイドにミラーが付いている。口に棒を咥え、パソコンもやっていた。男性の表情は明るく、「人間やる気になれば何でもできる」と思わされ、感動した。
島袋さんのいた国立リハビリセンターには重度の障害を負った人が多い。将来に不安を感じている人も少なくなく、暗い会話がよく聞かれた。その中で島袋さんは「表情の明るい人は、『今日はこれができた』など小さなことに喜びを見出し、将来への夢も持っている」ことに気付く。その男性を知ってから、"できないこと"を考えるのではなく、"できること"を頭に描こうと、気持ちが前向きになった。
回復に拍車をかけた会社倒産の危機
脳障害から来る記憶障害にも悩まされた。1度会った看護婦さんに再度挨拶をしてしまったり、薬を飲み忘れていることに気付かず、病院が分量を間違えていると思ったり。これが目に見えて回復するのは、仕事に復帰してからだった。2年近くに及ぶ入院中、父親に任せてあった会社が倒産寸前になり、「まだ治療が必要」という病院を説き伏せて現場へ戻った。当時の診断書には「1人で商談をしないように」などの注意事項が並んでいる。
初めは社員に出した指示などはすべてメモに書き、壁に貼った。「手帳に書くと、書いたことを忘れてしまう。書かないと、言ったことさえ忘れる」。そして退院して半年たつ頃には、周りが意識しないほど劇的に回復した。倒産の危機に瀕(ひん)し、必死だったのが脳への刺激になったのか、病院にいるときに比べ、明らかに回復力が違った。
車のカタログから義足のカタログへ
今でこそ「義足マニア」を自称する島袋さんだが、初めはうまく歩けず、転倒も怖かった。歩き方は、ヨチヨチ歩きの幼児を観察して学び、懸命に練習した。「大切な義足はいつも目の届くところに置いておきたい」と、食事の時もテーブルの上に並べ置き、周りを仰天させることもあった。以前は車やバイクのカタログを見るのが好きだったが、今は義足のカタログを見ることに至福を感じるという島袋さん。「身長や足の長さを自在に変えられるのが利点。1つくらいいいことがないと(笑)」。義足は用途によって数種類を使い分けるが、荷物の関係でバンクーバーへはスポーティーなデザインの1組だけを持参した。なかなか満足いく義足が完成しないのが目下の悩み。研究して模型を作ってはメーカーに持ち込んでいる。
事故で学んだ「やりたいことは即実行」
マラソンは、去年の11月、沖縄で開かれた3キロのトリムマラソンに参加したのが初だ。長時間歩くのは苦手だった。しかし、「1番苦手なことができたら何でもできるような気がして」参加。事故に遭う前は多忙を理由に、「いつか出よう」と思いながら実際に参加することはなかった。そして足を失い、「いつか」は現状の永遠が前提であることを知る。今回は即時出場を決意した。
それまで長時間の歩行はほとんどしたことがなく、マラソンへの不安は大きかった。だが、結果は見事完走。その際に受けたインタビューで「いつかフルマラソンに出たい」と答えた。それを有限実行したのが12月のホノルルマラソンである。当時、義足も完璧なものでなく、足の調子もいいとはいえなかった。しかし、夢を先延ばししていて足を失った実体験から、「やりたいことはすぐに実行すべき」という考えになった島袋さん。周囲の反対を押し切ってフルマラソン参加を決めた。
前例の無い両足義足のフルマラソン
ホノルル・フルマラソン参加を決めてから、義足メーカーに聞いて回ったが、両足義足でフルマラソンに参加した前例の無いことが判明した。義足では、パラリンピックでも400mまでしか競技がないという。メーカーは皆異口同音に「無理だ」と言った。足に負担が大きすぎるのだ。島袋さんはショックを受けたが、松葉杖を使い、足への負担を軽減する方法を思いつく。ホノルルマラソンの事務局に問い合わせると「タイヤがついていなければ規制は無い」との回答。希望が見えた。トレーニングにも熱が入る。マラソンといっても、足はすぐに痺れ、感覚が無くなるため、実際には腕の力での歩行に近い。そのため、グローブやプロテクターは欠かせない。足は補助としての役目となる。日頃の練習も、歩くことではなく上腕の筋トレが中心だ。松葉杖の改造にも余念が無い。
数々の困難や足の痛みと闘い完走!
マラソンで1番問題なのは、シリコンのライナー部分(接続面)に汗がたまることだ。そうなると、滑って義足が回転してしまう。透水性の素材の義足もあるが、フルマラソンを想定してないため、耐久性に乏しい。レース中は、義足を外し、たまった汗を捨てる作業にかなりの時間を取られる。熱ももつため、冷やさなければならないし、水を飲むときにも止まらないといけない。そうこうしているうちに、徒歩でマラソンに参加している人たちに抜かされる。のんびりおしゃべりをしながら団体で歩く参加者を抜き返すことは難しい。松葉杖が危険を及ぼすからだ。
「諦めなければいつかは完走できる」と頭の中で繰り返し、初フルマラソンは約13時間かけて完走を遂げた。夕日が沈みかけ、「とにかく陽のあるうちにゴールしようと自分を励ました」という。日本と違って制限時間が無いとはいえ、ゴールしたときにはもうすべてが片付けられていた。気力だけで走った島袋さんは、車椅子に倒れこんだ。
テリー・フォックスのいたカナダで走りたい
「苦しいことはすぐ忘れ、楽しいことばかり考える」という島袋さんは、帰国後、今度は10キロのトリムマラソンに数回参加。フルマラソンを完走したことにより感覚を掴み、不安なく走りきった。そして「もう1度フルマラソンを」と思っていたときに、カナダの英雄テリー・フォックスを知る。「そんな人のいた場所で走りたい」との思いが募った。奇しくもテリー・フォックス基金の生誕25周年、記念コインも発行された今年である。
今回の目標は10時間以内。バンクーバーのコースは折り返し部分が長く、気に入っている。「先を走っている人とすれ違えるのは嬉しい。沿道の応援があると頑張れる」からだ。
いい季節だが、景色を楽しむことはできない。ちょっとした起伏で足をとられ、負担となるため、路面を凝視していなければいけないのだ。「スロープを下りるのが1番きつい」。その上、疲れが出てくると、後遺症の1つ『複視』という、物が二重になる現象が出てきてしまう。
障害は言い訳。できないことは何も無い
「足が無いからできない」と、障害を言い訳にするのはやめよう、障害を受け入れようと思うようになってから、いろいろなことに挑戦するようになった。スキューバ・ダイビングのライセンスを取得したのも事故後である。今後は「トライアスロンへも挑戦したい」という島袋さん。足の痛みは常にある。義足で歩けば痛むし、4年たった今でも幻肢痛が出ることもある。「痛みを気にしていたら何もできない。痛みは付き合ってゆくもの」。
入院中、片足を失くした人と話す機会があった。将来の参考にと思い、島袋さんは「(足が無くて)できないことは何ですか」と尋ねた。するとその人は「できないことは何もない。ただ、今までよりも疲れるだけ」と答えたのだ。島袋さんは、"できないこと"を探していた自分を恥じた。その言葉は今も希望となって胸にある。
夢を諦めない!新事業も再開
日常生活は、自宅では車椅子、会社では義足だが、オフィスの椅子に座っているときは義足をはずしている。蒸れて皮膚に傷ができやすくなるからだ。「事情を知らない入社したての社員が、ギョッとすることもある(笑)」。車はあえて一般車にこだわり、改造していないため、義足を装着して運転する。
島袋さんは現在、多忙な合間を縫い、障害を持つ経営者の立場として講演することも多い。また、事故で中断していた新事業部も再開する予定だ。事故後より一層活躍、「夢を諦めない。やればできる」を体言している。
ホノルルマラソンでは、ゴール時には報道陣も解散、水飲み場や食料ブースも撤去されてしまったが、今回は多くの仲間が沿道から応援し続け、共に完走を喜び合った。「周りの応援があって頑張れた」と島袋さんはレース後、本紙に語っている。そして参加した若者らは「島袋さんから多くを学んだ」と口々に言った。沖縄での再会を誓い、彼らの交流は海を越えて今も続いている。
島袋さんの次なる目標は、11月のNYシティマラソン。また素晴らしいドラマが作られるに違いない。
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