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<戦後70年>「沖縄捨て石」 本土決戦の戦備、その悲惨な実態

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<戦後70年>「沖縄捨て石」 本土決戦の戦備、その悲惨な実態

6月23日(火)

 70年前の1945年6月23日、沖縄戦が事実上の終結を迎えた。国内最初の地上戦で、死亡したとされる沖縄県民は約4人に1人。本土決戦のための時間稼ぎとされ、沖縄は"捨て石"となった。しかし、本土防衛軍はあらゆる物資が欠乏し、農作業に従事するほど。政府・大本営が頼ったのは根こそぎ動員による一億総特攻だった。南洋で部下を死なせてしまったという元海軍士官の俳人、金子兜太(とうた)さん(95)は「国のために働かされ、死んでいくという制度や秩序は我慢できない」と告発する。


 本土決戦を準備していた皇軍の戦備は悲惨だった。「戦史叢書」(防衛庁=現防衛省=防衛研修所戦史室著)などによると、沖縄戦終結の45年6月末現在、帝都・東京を中心とする関東地方の防衛を担った第12方面軍の装備充足率は▽銃器50~80%▽機関銃60~75%▽車両類45~90%--にすぎなかった。軍刀、銃剣でさえ定数に満たない。弾薬自体が欠乏しており、大規模な戦闘を継続することは困難だった。

 あらゆる物資が欠乏していた。陸軍省は公式命令(1945年1月26日、陸密第三〇一号)で、各部隊に食糧生産を指示。第12方面軍では「禁闕(きんけつ=皇居の門)守護」の近衛第1師団でさえ、馬鈴薯(ばれいしょ=ジャガイモ)と甘藷(かんしょ=サツマイモ)を作付けする。牛20頭、豚210頭などの家畜も飼育していた。他には軍靴が不足し、草履履きの部隊もあったという。

 米国は「ダウンフォール作戦」と呼ばれる南九州、南関東への上陸作戦を計画していた。これに対し、日本は一般国民(男15~60歳、女17~40歳)の動員を決定。最終的には本土人口の約4割、2800万人を「国民義勇隊」に編成し、竹やり、爆雷、猟銃などの貧弱装備で、米上陸軍に斬り込み攻撃させるつもりだった。

 沖縄では未成年の男子学徒が「鉄血勤皇隊」、女子学徒が「ひめゆり部隊」などに編成され、米軍の砲爆撃にさらされた。日本軍による民間人への集団自決の強制、犯罪行為なども発生。沖縄県によると、米国側1万2520人、日本側18万8136人が戦没。このうち、沖縄出身の軍人軍属は2万8228人、沖縄住民は9万4000人にも達したという。それは来るべき本土決戦の縮図と言えた。

 金子兜太さんが駐屯したトラック島は米軍によって孤立化。餓死者が続出するなかで「生存することがすべて。人間的感情を失い、沖縄陥落を聞いても無感動だった」という。

  水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る

 自分たちも"捨て石"だったとし、「部下を亡くすということ。栄光などない戦争の実態。それを現在の政治家、自衛隊幹部はどのように考えているのか」と問いただす。【高橋昌紀/デジタル報道センター】

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