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東京新聞 「大規模マラソンの社会貢献」 移植者、障害者のスポーツ参加を考える パネル討論

【東京新聞フォーラム】2007年2月15日掲載

「大規模マラソンの社会貢献」 移植者、障害者のスポーツ参加を考える パネル討論

2007年2月15日

パネリスト冒頭発言

大久保さん 「移植者の部でゆっくり走る」

NPO日本移植者 協議会理事長 大久保通方さん

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 私は22年半前に妹から腎臓移植を受けました。仕事はカメラマンで、運動音痴でしたが、移植者だけのスポーツ世界大会があるのを聞き、すごく興味を持ちました。1991年にハンガリーの大会に出場しました。そのときに移植を受けた方たちのすばらしい笑顔と生き生きした姿を見て、何とか日本でこの大会をやろうと思ったんです。

 何億円もお金がかかりますし、大変な事業なので、とてもできるとは思っていなかったんですが、2001年に神戸で開催、世界から1000人ぐらいの方が来られ、いい大会ができました。

 東京新聞がやっていた東京シティロードレースは、日本で唯一、移植者の部がありました。みんなで出ようと呼びかけ、私は10キロを1時間ぐらいかかって走っているんですが、02年からずっと出させていただき、いつも楽しみにしていました。東京マラソンでも10キロの部があるとのことで、移植者の部でゆっくり走らせていただきたいと思っています。

 おおくぼ・みちかた NPO法人日本移植者スポーツ協会理事長。1947年大阪市生まれ。91年日本腎移植者協議会(現NPO法人日本移植者協議会)を設立、99年日本移植者協議会理事長に選出される。2001年に第13回世界移植者スポーツ大会を神戸で開催する。

成田さん 「偶然の誘いが泳ぐきっかけ」

パラリンピック 水泳メダリスト 成田真由美さん

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 私は、中学1年生のときに病気のために車いす生活になりました。そのころ、ソウル・パラリンピックの陸上競技を見て、選手の顔がすごくキラキラ輝いていて、車いすに乗っていてもできるスポーツがあることを知りました。

 歩けるころ、私は水が大嫌いで泳げなかったんです。そんな私が水泳を始めたのは、障害がある人から、リレーのメンバーが1人足りないといって誘われたんです。当時、ホノルル・マラソンに行きたくて、陸上の練習ばかりしていました。泳げない私は断ったんですが、水泳大会が仙台であると聞き、仙台に行けば、笹(ささ)かまぼこも、牛タンも食べられると、OKしてしまったんです。

 それは1996年のアトランタ・パラリンピックに行く2年前でした。その後のシドニー、アテネ大会も、皆さんのたくさんの応援が自分の励みになって、3大会連続出場できたのが、私のスポーツとのかかわりです。

 なりた・まゆみ 1970年川崎市生まれ。13歳の時、脊髄(せきずい)炎により下半身まひとなる。96年パラリンパック・アトランタ大会で金メダル2個を獲得。2000年のシドニー大会で5種目の世界記録を更新し、6個の金メダル、04年アテネ大会でも7個の金メダルを獲得した。

島袋さん 「両足義足でも山登りに挑戦」

義足のマラソンランナー 島袋勉さん

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 私は、中学校のときに、市民ランナーがだれでも参加できるホノルル・マラソンの記事を雑誌で見て、50歳までに仕事を引退してマラソンに出たいなと考えていたんです。ところが、今から5年10カ月前に交通事故に遭い、両足を切断。一生車いすの生活だと思っていたんですが、病院の先生から、義足をはいたら歩けるようになるといわれ、歩く練習を始めました。そのうち、もしかして自分も走れるかもしれない、いつかマラソンに出たいと思うようになりました。

 医療の関係者の人も義足を作る方も「片足でやっている人はいるが、両足では無理だ」と言われました。そのころ、私にとって一番つらいことは、長いこと歩くこと、走ることで、マラソンができればほかのことは何でもできるという気分で始めたのです。事故に遭い、50歳からと思っていたマラソンが早く始められました。今はスキューバダイビングとか山登りとか、いろんなスポーツに挑戦しています。

 しまぶくろ・つとむ 1963年沖縄県生まれ。2001年踏切事故に遭い、両足を切断。高次脳機能障害(記憶障害)を負う。04年、ホノルル・マラソンで、世界で初めて両足義足でマラソンを完走。以後もさまざまな大会に精力的に出場し完走。著書に「義足のランナー」(文芸社)がある。

佐々木さん 「還暦を迎えてマラソン完走」

東京マラソン 事務総長 佐々木秀幸さん

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 私は、高等学校2年のときに陸上競技を始めました。それまでにもいろいろなスポーツをやっていたので、急に記録が伸びました。専門はジャンプです。残念ながら志をきちんとした形で達成することができませんでした。

 その後、東京都の中学校の教員になりましたが、東京オリンピックのときに、自分ができなかった夢を何とか達成する、いい選手を育てる指導者になろうと東洋大学の教員になりました。選手に恵まれ、オリンピックの選手がぽつぽつ出てきました。その後、母校の早稲田大学の教員となり、定年を迎えました。

 59歳のとき、高校時代からの4人の親しい友達とトレーニングを始め、60歳のときにホノルル・マラソンを完走しました。市民ランナーとして長い距離を走り終わったときの感動は格別。孫に囲まれ、ほのぼのとした人生の喜びを感じた友人もいます。私はそれ以来、長距離マラソンで人生を楽しんでおります。

 ささき・ひでゆき 日本陸上競技連盟名誉副会長、早稲田大競走部(陸上部)顧問。1932年生まれ、東京都出身。日本陸上競技連盟専務理事、アジア陸上競技連盟副会長なども務めた。昨年、スポーツ振興と教育研究の功績により瑞宝小綬章を受章。

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