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我喜屋監督・・・楽しみにしています!

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日米親善高校野球でも我喜屋監督楽しみにしています。

9月2~6日4試合とのことです。 全国高校選手権の優秀選手から18人で監督は興南の我喜屋優監督とのことで、沖縄出身のコンプトン在住の島袋さんも楽しみにしていると連絡がありました。
 
カリフォルニア在住の田中さんという日本人より「島袋洋奨くん応援しています」と応援メールが届いています。島袋洋奨くん、楽しみにしています
全日本選抜18人↓
【投手】島袋洋奨(興南)一二三慎太(東海大相模)中川諒(成田)大西一成(報徳学園)池田駿(新潟明訓)渡辺政孝(九州学院)木村謙吾(仙台育英)
【捕手】山川大輔(興南)磯村嘉孝(中京大中京)山口元気(北大津)
【内野手】真栄平大輝・国吉大陸・我如古盛次(興南)福山亮(東海大相模)山田哲人(履正社)
【外野手】伊集院駿(東海大相模)八代和真(報徳学園)後藤駿太(前橋商)

 

夏の甲子園で優勝した直後の我喜屋監督のコメント・・・印象的でした。

42年前の我喜屋監督が主将で出場した頃をおぼえている方が我喜屋監督の記事を読めるように・・・掲載します。ラシーマに来られた60代の方が「我喜屋くんが本当に42年後に、よくやってくれて私は感激している」と話されていました。我喜屋監督の活躍で60代、70代の方々の喜ぶ表情をたくさん見せていただいています。その年代の方のいろいろな思いを聴かせていただきました。

我喜屋監督が、夢をあきらめなかったからこそ・・・と、つくづく感じています。

新聞記事より↓2010年夏の甲子園 優勝後の我喜屋監督

沖縄県勢初 夏の甲子園制した興南監督 我喜屋 優さん(60) 

沖縄県勢初 夏の甲子園制した興南監督 我喜屋 優さん(60) 
拡大写真
興南・我喜屋監督=甲子園球場(鳥越瑞絵撮影)(写真:産経新聞)
 試合が終わったばかりだというのに、九回の守りの記憶がはっきりしない。「ずっと昔のことを思いだしていたんです」。刻一刻と迫り来る歴史的瞬間。脳裏を駆け巡ったのは、40年以上前の色あせた映像だった。

 昭和43年夏、選手として4強入り。だが、優勝した興国(大阪)に0-14で大敗した。「体は大きいし、格好いい。あの野球に勝てる時代がくるとは思っていなかった」。パスポートを持って船に乗り、鹿児島から夜行列車ではるばる大阪へ向かった18歳の夏。「内地」つまりは本土との格差に打ちひしがれた。

 大昭和製紙北海道で社会人野球の選手として都市対抗大会を制し、監督も務めた。母校に戻ったのは、大敗の苦い経験から39年がたっていた。ライバルの沖縄尚学が春に2度、全国制覇を成し遂げていたが、深紅の大優勝旗はいまだ沖縄への海を渡っていなかった。

 「沖縄の学校は夏の甲子園では勝てない」。そんな声に真っ向からあらがった。意識改革の一つが、県民特有のおおらかさを示す方言「なんくるないさ」(何とかなるさ)を、野球においてよしとしなかったこと。寮の消灯時間を1分過ぎることを許さなかった。県大会前でも、部の約束事を守れなかった主力メンバーの練習を禁じたのは、その最たるものだ。

 春の選抜を制した翌朝。満開の桜をめでながら、選手たちに言った。「この花もいずれは散る。もう一度根っこづくりから始めよう」。同郷の先人が咲かせられなかった花を、見事に開花させた。(細井伸彦)

【プロフィル】我喜屋 優

 がきや・まさる 昭和25年6月23日、沖縄県南城市(旧玉城村)生まれ。43年、興南高3年夏の甲子園に4番・主将で出場し、4強入りを果たした。平成19年4月に興南高監督に就任し、今年7月からは理事長も務めている。
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