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慰霊の日 沖縄 各地で平和への祈り

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慰霊の日 沖縄 各地で平和への祈り

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沖縄 各地で平和への祈り

"戦争では命は石ころ"

最後の激戦地となった沖縄県糸満市摩文仁の平和祈念公園には、遺族などが訪れ、戦没者の名前が刻まれた「平和の礎(いしじ)」に花を手向け、犠牲者を悼みました。
母親を亡くした那覇市の金城光子さん(73)は、「足を切断されて亡くなった母親の姿を見ていて、どれだけ苦しかっただろうと、今でも忘れられません。二度と戦争のない世の中になってほしいです」と、声を詰まらせて、涙を流しながら話していました。
母と祖母、それに4歳だった妹など4人を亡くした、豊見城市の呉屋節子さん(75)は、「みんなで一緒に逃げているとき、誰もいない家の床下に隠れていたら、アメリカ軍の手りゅう弾で、私を残して全員が亡くなりました。沖縄戦では、私たちの命は石ころのように軽いものでした。こんな戦争は二度と嫌です」と話していました。
当時赤ちゃんだった、那覇市の大城啓子さん(69)は、母親が自分にお乳をあげているときに撃たれて亡くなったと、後になっておじから聞かされたと言います。
大城さんは「母が撃たれたとき、私は血だらけになって、近くにいた人に抱えられて生き延びました。戦争がなければ母と一緒に過ごせたかと思うと、憎くてたまりません。母の顔を見たことはありませんが、母の名前が書いてあるここに来ると、会えた気になります。うれしいときやつらいときは、いつもここに来ます。きょうは子どもや孫たちを連れて来たので、『いつまでも見守っててください、感謝しています』と母に伝えました」と話していました。
祖母や兄など4人を亡くした、南城市の我喜屋宗監さん(75)は、「つらい出来事で、当時のことを思い出すと、ことばになりません。戦後もアメリカ軍の統治が続き、基地が集中している状況も変わらないが、基地のない、平和が実感できる沖縄になってほしい」と話していました。

戦後67年 ようやく名前刻まれる

平和の礎には、ことし新たに名前が刻まれた犠牲者の遺族も訪れました。
那覇市の多賀良文子さん(75)は、沖縄戦で亡くなった4歳の妹の名前が刻まれた石板に花を手向け、祈りをささげました。
多賀良さんは「戦後67年もたちましたが、ようやく名前を刻み、妹の生きた証を残すことができてよかったです。戦争はもう二度と繰り返してはいけないと思います」と話していました。

"二度と戦争起きてはならない"

戦後、放置されていたおよそ3万5000人の遺骨を集めてまつった、沖縄県糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」にも、早朝から祈りをささげる人が訪れました。
那覇市に住む国吉信英さん(79)は、「兄は兵隊に行って、この辺りで亡くなったとしか分からないので、ここに来ます。戦争は体験した人にしか分からないですが、二度と起きてはならない。アメリカ軍の基地は絶対に反対で、見たくもないくらいです」と話していました。
2人の兄を亡くした、那覇市の照喜名朝英さん(79)は、「この時期になると、毎年、涙が出てきてしかたがないです。67年たちますが、いまだにきのうのことのように頭に浮かんできます。若い人たちに体験を語って、戦争を二度とやるなと世界に訴えたい」と、あふれる涙を拭いながら話していました。
両親を亡くした那覇市の玉城小太郎さん(84)は、「朝早く起きて両親に会いに来ました。安らかに眠ってくださいとお祈りしました。なぜ沖縄にたくさん基地があるのかと思います。基地は、早く撤去してほしい。今度はオスプレイが来るといいますが、危ないですし、なるべく飛行機の音も聞きたくない」と話していました。
妻の両親と姉を亡くした、那覇市の前田正次郎さん(68)は、小学5年生の孫と訪れて、手を合わせたあと、「二度と悲しいことを繰り返してほしくないが、沖縄は当時とあまり変わっておらず、昔に戻らないかと思うと、怖いくらいです。政治が安定せず、総理大臣が何回も代わっているのが心配です」と話していました。

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