野球部員一人1人の今後の人生を考え...育てておられる魅力・・・
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"興南春夏連覇『島袋の夏』完投で完結"の新聞記事を見て、私にまで「祝!島袋の夏」メールが届いています。
ありがとうございます!島袋くんがあきらめず素晴らしい投球をしてくれたお陰です。
我喜屋監督がこれまでも常に話されてきたように、野球を通して社会に通用する人材つくり・・・。
高校野球を終えてからの人生が本番と・・・野球部を指導される我喜屋監督の姿勢がとて魅力的・・・野球部員一人1人の人生を考え育てておられることが伝わってきます。まさに興南野球家のお父さん・・・子どもの今後を考える大きな家庭の子を思う父親の日々の指導・・・。
この夏、沖縄・興南春夏連覇で「島袋の夏」完投で完結!とありますが、島袋くんの人生は高校野球を終えてからこそ本番!
これからも粘り強い島袋くんらしく、自分のペースで着実に一歩一歩前進されますように願っています!我喜屋監督のこれからの人生を考えた厳しい指導は高校野球を終えた後...それぞれが人生の勝利者になるような深い願いがあってこそ・・・。
優勝後に、島袋くんが「天狗にならないよう、1から頑張りたい」と語る様子に我喜屋監督の思いがしっかり根を張っているようで嬉しく思いました。
新聞記事より↓2010年夏の甲子園 沖縄・興南 島袋くん完投記録
興南春夏連覇『島袋の夏』完投で完結
史上6校目の春夏連覇を達成し山川(右)と歓喜の抱擁をする興南・島袋(撮影・保田叔久) |
第92回全国高等学校選手権大会・決勝で興南(沖縄)のエース・島袋洋奨投手(3年)が、東海大相模(神奈川)を相手に1失点完投。巧みに変化球を操る"ニュー島袋"を披露し、チームを沖縄県勢初の夏制覇と史上6校目の春夏連覇に導いた。先発全員安打で援護してくれた仲間と共に歩んだ連覇への道。灼熱(しゃくねつ)の中で一際輝いた小さな巨人が、甲子園に鮮烈な歴史を刻んだ。
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歴史的勝利を決める最後の1球は、140キロのストレートだった。九回2死。白球は恋女房・山川のミットに収まり、三振で島袋の長い戦いは終わった。
「夏の優勝を目指してやってきたので、目標を達成できてうれしいです」。島袋は4万7000人の大観衆に飛び切りの笑顔を振りまいた。好投しても初戦突破できなかった昨年春夏の大会、そして今年の甲子園での11連勝を思い起こしていた。
頂上決戦でニュースタイルを披露した。これまでの速球でぐいぐい押す投球とは一線を画した。三振はわずか4個。変化球でゴロやフライを打たせた。初回いきなり中前打の走者を出し、1死一、三塁のピンチを作ったが、次の打者は1年時から投げているツーシームで併殺。課題の立ち上がりを切り抜けた。
二回以降、走者を得点圏に進めてからも、落ち着いて後続を断った。「最後の最後に理想的なピッチングができた」と満足そうに語った。
「ブルペンで投げているときからスライダーがよかった」という島袋は、山川と話し合い、変化球主体の組み立てを決めた。準決勝まで、スライダーは高めに抜けることが多く、有効な変化球とはいえなかった。この日は「スライダーが決まったのでツーシームと真っすぐの使い方がよかった」と、幅のあるピッチングに生まれ変わった。
2回戦以降、2度の2日連投を含め、1週間で5試合を消化。だが173センチ、65キロの小柄な体は、驚くほどタフだ。甲子園での連投をにらみ、6月下旬の1週間は1日200球の投げ込みを敢行。「勝負は沖縄での準備から決まっている」と我喜屋優監督(60)が話す通り、常に甲子園での戦いを想定して練習してきた。
1958年、首里が沖縄県勢初の代表として選手権に出場して以来52年。県を挙げてのバックアップもあり、ついに悲願の夏の全国制覇を遂げた。同県高野連では毎年1月、走力や遠投などを競う「野球部対抗競技会」を開催し、基礎体力の底上げを図っている。
今春落成した「沖縄セルラースタジアム那覇」の設計も全国大会を意識したものだ。ホームベース後方や一、三塁側のファウルゾーンは甲子園球場より広い。球場関係者は「甲子園に出場した選手が、ファウルゾーンの広さに驚かないために」と話した。
春のメダルとの違いを聞かれた島袋は「こっちの方が重いですね」と笑いを誘い「まだ実感がない。本当にやったのかなと思う」と淡々と答えた。卒業後の進路は大学進学とみられるが「今は何とも言えない」と明言を避けた。「天狗にならないよう、1から頑張りたい」。2度の優勝を経ても、謙虚な姿勢は一切変わることはなかった。
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