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今回の震災の後,今後の福島を応援していきたいです

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産経新聞のこの記事↓。さまざまな思いを考えています。

健康や安全を優先する大切さを分かっていても,故郷を失うことがどれほどのことか?

記者の「まさか自分の故郷を取材することになるとは思わなかった」その思いを考えています。
*****産経新聞より****

故郷を失うことの重さ 福島県飯舘村

【社会部発・被災地から】

 福島県飯舘村で育った。南相馬市の高校に通い、部活動の試合では双葉町を訪ねた。よく泳いだのは、相馬市の海だった。

 震災以降、東京電力福島第1原子力発電所のニュースで見聞きするのは、慣れ親しんだ景色や地名ばかりだ。記者になって約6年がたち、さまざまな場所に取材に行ったが、まさか自分の故郷を取材することになるとは思わなかった。

 故郷は東京のスピードとはどこか違う、穏やかでのどかな村だった。それなのに取材で会う人はみな、悲しみに暮れ、やりきれなさや怒りを抱えていた。

 「避難したくない」。飯舘村の住民がこう主張しているとよく報じられている。高い放射線量にさらされているのに、なぜ避難しないのか。そこには故郷に対する愛着を超えて、何か理由があるはずだ。考えながら取材する中で、ひとつの答えにたどりついた。

 飯舘村の産業は、農業が柱だ。昭和40年代ごろまで、農作業のない冬には、男性は出稼ぎに行っていた。一家の大黒柱を失い、厳しい冬を女性と子供だけで過ごす。家族が離ればなれの不安な冬を越えて、ようやく春が来る。農作業の始まりと家族の再会、春は喜びの季節だった。

 出稼ぎをなくし、村でも働けるように、畜産やタバコの栽培が始まった。交通網が発達するにつれて、会社が興され、工場が建てられるようになり、ようやく村内だけで生計を立てられるようになった。その間にも大火事や大冷害に見舞われたが、そうした厳しい時期を乗り越え、努力で村を作ってきたからこそ、村に住むことにこだわる。

 「東京では水がなくなると大騒ぎして買い占めたりしているのに、村や町がなくなるのは気にしないんだな」

 村の男性はそうつぶやいた。約3週間ぶりに東京に戻ってみると、コンビニエンスストアには震災前と変わらず、商品があった。節電とはいえ、街の明かりはいつもとそう変わっていなかった。「水がなくなる」「ものがなくなる」と買い占めていた騒ぎはなんだったのだろうか。頭をよぎるのは、村の男性の言葉だ。故郷を失うかもしれないという事態に、現実に直面している人たちがいることを感じてほしい。(大渡美咲)

 

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