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寺田先生の三河湾100㎞ウォークチャレンジに感動して【体験記】

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このページで読めるようにしてほしいとりクエストがあった2013年10月に書いた体験記。

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寺田先生の三河湾100㎞ウォークチャレンジに感動して【体験記】
                                         島袋 勉        
 今年の初めに寺田先生が三河湾100kmウォークに参加されると大谷先生から知らせて頂き驚きました。と,同時に私も応援に行き一緒に歩かせてもらいたいと思いました。その後,自分も100km歩くことができるのか?大きな不安が出ました。新しく作ってもらった義足のフィッテイングが悪く長時間歩くことができない状態が続いていたのです。でも,なぜか楽観的な気分でした。

 9月に入り寺田先生を完走させる会=「チームISSEI」の情報がメーリングリストで知ることができるようになり練習会が行われることを知りました。9月に練習会がある事を知り、自分も根拠もない楽観的な気分に浸ってもいられないと感じました。
  
 妹の「本当に大丈夫なの?」との問いに,何の根拠もなく「やればできると思う」と答えていました。9月22,23日の休みを利用して近くの公園を50km歩いてみることにしました。
 妹と共に午後3時,歩き始めました。5kmに一回義足を外して汗を拭きとる予定でスタート。ところが3kmも進まないうちに足に骨の痛みが出始めたのです。
 "こんなはずではなかった"頭の中で考え始め、よく考えてみると,この義足が出来た春から長時間歩いたことが無かったこととに気が付いたのです。

 3km進んだところで義足を外し、また歩き始めました。何度も休みながら20kmほど進み、休まずに5kmも歩き続けられない現実に驚いたのです。「本当に大丈夫と思っていたの? 私は,予想通りだと思う」との妹の言葉に,客観的に自分を見ることがでていないことに気付いたのです。30kmを超えたあたりから苦しさは増し、どうすればよいのか考え続けました。

 足の痛みは取れないのでハンガーノックにならないように,食べ続けようと思ったのです。体力と気力を保つために休む度に水分とエネルギー補給をすると,気分が少し楽になってきました。「まだ考えることはできている」と思っていました。42km辺りから足に激痛が出て,1km進むのに15分以上かかっていました。休む時間も長くなっていました。

 今回の目標の50kmは歩きたい。そんなことを考えていると,ふと気が付いたのです。「義足とソケットの隙間を調整している断端袋を外したら,足の締め付けの痺れは楽になるのではないか?」やってみると,骨の痛みは良くならないが痺れは幾分よくなってきたのです。
 のろのろと歩き始めると、遅いのですがなんとか進み50km歩くことが出来ました。あまりの激痛で,もうこれ以上歩けないと思っただけに嬉しい!と,同時に衝撃を受けたのは,15時間以上もかかっているという現実でした。

 その後は、足の痛みがひどくて義足を履いて歩けない状態が続いていました。何とか会社へ行くことは出来ますが,駐車場とバイクの間を歩くのが精いっぱいの日が続いていました。「何とかしなければ・・・」義足のアライメント調整をしてペース配分を考えて、補給食を考えて...義足の片方を壊れかけた古いのに交換し修理して,翌週に痛みの残る足で歩いてみました。15km歩くのが精いっぱいでした。

 もう一つ自分で決めた10月には大きなチャレンジがあったのです。それは講演のため神戸空港から鳥取まで自転車で行き,さらに島根県の松江市や美郷町を回り神戸空港まで帰る。その間に講演4回、距離690kmを自転車で移動するというものだったのです。

 ところが足の痛みでそれどころではなくなりました。それで,自転車での講演旅行は中止しようと考えていました。 「100kmウォークのためにも...」と,同時に「自信を取り戻すために何ができるか?」考え続けたのです。
 考えた結果は,自転車旅行の決行でした!"出来るところまでやって,出来たら大きな自信になる"そう思ったのです。同時に痛みがひどければ,その時には公共交通機関を使うこともできる。と,考えたのです。

 9月29日会社へ出勤し、その後那覇空港へ向かいました。神戸空港に着いて初めにしないといけないのが,自転車の組立てでした。そして出発。その日の予定(正確には翌朝まで)は180km。道に迷いながら国道2号線に出ることがやっと出来ました。

 進みながら足の痛みの少ないペダリングのコツもつかめてきました。夜の姫路から内陸部に向かう途中には猪や鹿にも出会い驚きましたが,たくさんの猿がいました。猿の鳴き声が,車の通らない夜中の道路に響いていたのです。夜中にあわくら温泉を過ぎ,下りに差し掛かった時に3匹の鹿にぶつかりそうになりハッとしましたが,何とか当たらずに通過しました。車は全くなく,道路は静寂に包まれ猿の鳴き声だけが延々と響いていました。

 鳥取まであと12km地点の道の駅"清流茶屋かわはら"にたどり着いたのは朝方4時頃でした。仮眠して朝、鳥取に到着しました。予定していた4回目の松江市での講演を終え,松江から神戸空港へ出発しました。その日は朝から雨でした。

 「神戸空港まで明日の夕方までにたどり着ければ今回のチャレンジは成功!」午後,雨の中を出発しました。ただひたすら坂道が続くような気がしました。夜になり,対向車が来るとライトの眩しさで前が見えなくなるのです。夜、雨、坂道、足の痛み、最悪の条件がそろったと思いました。
 しかし,よく考えてみると最高の条件がそろっていることに気が付いたのです。「自信をつけるためのチャレンジ」それにふさわしい最高の条件なのです。

 対向車のライトが眩しくて前が見えなくなるのには苦しみました。路肩に駐車車両があっても見えない状況でした。ぶつかることが無いよう中央車線寄りを走るように注意しました。登りで体力を消耗し下りで雨の中ブレーキをかけ続けて走るのです。止まって,義足を外さなければならないのですが、義足を外すと足はむき出しになり寒さが襲ってくるのです。最高地点を超え,下りに入ると登り以上の恐怖が襲う。タイヤが滑らない路面を選びたいのですが,眩しくて前が見えないのです。ペダルを回して体を温めたいのですが,スピードが出すぎてしまう...スピードを落としたいが雨でブレーキが効かない...義足を外したいが寒さが襲ってくる。さっきまで山を越えれば楽になると思い込んでいる自分がいたのです。過ぎてしまえば過去を良かったと思う...。そして気が付いたのです。どんなに苦しくても乗り越えればすべてがいい思い出になると...。

 こんな事に気が付くと,苦しさも楽しくなってくるのです。次第に雨も弱くなり140km地点を過ぎた頃、神戸空港までたどり着ける目途がついたような気がしました。津山辺りのコンビニでおにぎりとパワーバーを食べ出発しました。
 雨もほとんどやみ,快調に走れるようになった時、いきなりお尻を思い切りバットでたたかれたような衝撃を受け,宙を舞った...何が何だかわからない...地面に叩き付けられ,体中が痛かったのです。

 追突されたということすらわからなかったのです。救急車で病院に運ばれ,病院では「家族に連絡しましょう」と...。12時過ぎの夜中です。今,連絡がいくと大騒ぎになる。「自分で連絡できます。」そう答えてその場をしのいだ。退院を希望すると「だれが迎えに来ますか?」「だれか来てもらいます。」と,返事にならない受け答えでした。その後,動揺した加害者の方が病院に現れたのです。名前を名乗り,明日また見舞いに来ますと言われたのです。助かった!9時に来てもらう約束をして翌朝を待つことにしました。
 その方を迎えの人として,駅まで送ってもらうようにお願いできるからです。明日中に那覇へ帰れないなら明後日は台風で帰れなくなるからです。次の予定を考えつつ痛みで眠れない夜を過ごしました。しかし,救急車で運ばれてくる人達の会話は面白いものでした。夜中も運び込まれてくる急患の会話に聞き耳をたてながら朝を迎えました。

 お迎えの方は9時に病院へやってきました。駅まで送ってほしいこと、事故現場に連れて行ってほしいことを伝えました。自転車での走行中に,後方からの突然の追突で何が生じたのか?わからなかい状態でしたので,事故現場を見て事故の時の様子を知りたいと思ったのです。病院から保険会社へ連絡をして支払いを済ませ現場に向かいました。私が「事故の状況を教えてほしい」と伝えると、その方は「言い訳になるかもしれないですが,対向車のライトが眩しくて前が全然見えなかったので,ぶつかって初めて気がつきました。私も気が動転していて...」など話し出しました。私は明るいテールライトも二つ付け,ヘッドライトも3つ付け,蛍光シートがついたリュックを背負っている自転車が見えないのは居眠り運転だったのか? こんな疑問も感じ始めていました。

 事故現場に到着して,車を降りて現場を見ると道はカーブしている、坂道にもなっている。雨だった。「車のどこにぶつかったのですか」?と聞くと「ボンネットの凹んでいるところ...」と,話すのです。見みるとボンネットが大きく凹んでいる...バンパーも凹んでいる...それも真ん中が凹んでいるのです。車を見て,状況がつかめました。昨日,自分が感じていた状況だと思ったのです。ブレーキをかけることもなく,ぶつかって初めて気が付いたというのも合点がいくのです。それから駅まで送ってもらい,そこで別れました。痛みをこらえて,やっと自転車を列車に乗せたのです。

 津山の駅から岡山駅まで行き新幹線に乗り,新神戸で降りると神戸空港まで自転車で行こうと思ったのです。"今、乗らなければ恐怖症になるかもしれない"そう思って乗りたくなったのです。体中が痛く,なかなか思うように自転車が組めないのです。新幹線を使ったので時間は十分にあったので,自転車をよく点検しながら,ゆっくりゆっくり作業をして組立てました。何とか乗れる・・・時間をかけてどうにか神戸空港に到着しました。
 何とか予定の飛行機で那覇空港にたどり着きました。あとは自宅へ帰るだけ。またゆっくりと自転車を組み立て始め,また時間をかけてどうにか家にたどり着きました。家に着くまで事故を家族に悟られなかったのです。ホットしていました。

 100kmウォークは無理かもしれない肋骨が折れているようだ...。笑うと痛い、息をしても痛い、寝るのも痛い。右手が痛い肩が上がらない、首を動かすと痛い。お尻も背中も痛い。痛みの中で痛みのない日々に感謝しなければならないと思っていました。このような肋骨が骨折している痛みがなく,暮らせていることが当たり前のような気がしていたのです。
 
 100km歩くことは出来ないかもしれないが,寺田先生の応援には行こうと思っていました。寺田先生の年齢になって自分に100km歩く気力があるのか?考えてみました。どうしても一緒にスタートして最後のゴールは見届けたいと思いました。
 
 そして100kmウォークの前日、三河へ向かいました。中部国際空港から名古屋へ向かいそこで仕事を一つ済ませて宿舎へ向かうつもりでいました。駅から宿舎まで荷物を持って歩くのはつらいので,自転車を使う予定でした。ところが現実は那覇空港で搭乗口まで歩くのが大変でした。中部国際空港の中を歩いているだけで,すでに痛みが激しくなりました。"
 もう歩けない"そう思ったのです。名古屋での仕事は断念することにしました。今回の目的は100kmウォーク。そして寺田先生の応援だと思い,駅を歩くよりは自転車だと思い自転車を組み立て早目に宿舎に向かったのです。20km余りの距離なので2時間もあれば十分行けると思っていました。しかし現実はそう甘くはなかったのです。足の痛みのせいで頭が回らなくなっていたのです。道迷いに道迷いを重ね3時間半もかかってしまいました。段差のあるたびに肋骨が痛む、足が痛む、頭は回らない...。

 疲れ果てて宿舎につくと考えたのです。明日歩く方法を...。結論、食べて元気になることだと思いコンビニに買い出しに出かけました。それから食事をして風呂にも入りさっぱりしました。

 「Team ISSEI」のメンバーが集まり決起集会が始まると,皆さんの自己紹介や決意を聞かせていただきながら私の気分も盛り上げっていました。寺田先生100km完歩のタオルが配られると,自分も一緒に完歩できた。そんな気分にすでになったのです。八尾総監督が「歩いていると肋骨の痛みは感じなくなる」と言われました。河上トレーナーは部屋まで来て下さり,痛みのある部位の確認をしてマッサージをしてもらいました。そこまでしてもらったら,完歩できて当たり前という気分になってきたのです。
 部屋に戻りもう一度,最後まで歩ける方法をシュミレーションしてみました。出来るだけ寺田先生と一緒に歩きたいと思ったのです。しかし,それでは自分が足を引っ張ると思ったのです。痛みが出ると全然歩けなくなるので、そのためのマージンを取る作戦に出ました。木下さんにサポートをしてもらいペースを知らせてもらうことにしました。両手に杖を使うので,自分では止まらなければ時計を見ることが出来ない...。これが一番困っていることだったのです。最初だけ「Team ISSEI」のメンバーと一緒に歩かせていただき、後は出来るところまで進み最後はゴールでみんなを迎える作戦。
 
 当日の朝、体操してミーティングをして食事をしてスタート地点にたどり着き,主催者である犬塚会長に挨拶をしてメンバーと共に歩き出すことができました。しばらくして,寺田先生を追い抜き元気のあるうちに先回り、最初の2km程は順調に進みました。
 最初の義足を外したところから,痛みが出始めまさかのペースダウン。寺田先生にも追い越され先が思いやられる展開。その時はまだ頭が回っていたようで苦しいながらも痛みの少ない接地方法を発見!その後、何度も好調と不調を繰り返しながら順調に進めたのはサポートの素晴らしさでした。休む度にマッサージを受けることが出来,これまでの中で筋肉の調子は最高でした。痛みが取れるとスピードが上がって調子が悪くなった時のマージンを作ることが出来ました。
 
 夜の寒い時も暖かい食べ物を準備してもらい「完歩できるかもしれない」と,思い始めていました。自分が苦しくなると,進みながらも寺田先生のことが気になっていました。しばらくして寺田先生が40km地点でリタイヤすると情報が入ってきた時には"もういいかな"とも思いました。ところがサポート体制が素晴らしく,自分の体がこれまでになく調子がいいことにも気が付きました。ところが71kmチェックポイントを超えしばらくすると道が狭く凹凸のある路面ここで足を痛めてしまい83km地点は制限時間ぎりぎりで通過、さらにしばらくして上り坂に入ると調子が良くなり完歩できる気分になっていました。

 その後不調と好調を繰り返しましたが89km地点からは完全に歩けなくなってしまい,頭も回らず問題の解決策を見つける糸口も見つからない状況でした。93km地点を前にして右足の痛みがひどくなり全然前に進めなくなっていました。
 制限時間を前に時間ばかりが気になり痛みで立ち上がることもでない状態でした。その時にふと考えたことがありました。それは、この時の痛みは右足がソケットに当たり痛みが出ていたので足を地面につけなくても痛いというものでした。履いているだけで痛い。それで結論はもう一度履き直しそれで駄目なら右足の義足を脱ぎ捨て,杖があるのだから片足義足で歩こうというものでした。あと1kmだけならどんなに痛みが出ても歩けるような気がしてきました。まずチェックポイントを超えよう。それだけの思いでした。

 幸運なことにチェックポイントを超えると上り坂でした。登りは足への負担が少なく痛みが少ないので調子が良くなりペースが戻ってきました。良いことは続かないもので坂を上り切ったら下るしかありません。また足を痛めてしまい96km地点手前から急激にペースダウンそこからは自分でもわかるほど意識が朦朧とし何も考えることが出来ませんでした。96km地点を少し過ぎて休憩。
 雨の中義足を外すと寒さで意識が遠のいていくようでした。ここから先,下りはなく平坦と聞いて"完歩は出来る"そう思い進み続けました。わずか4kmがこんなに長いとは思いもしませんでした。いつまでもゴールは来ないようにも思える延々と長い距離に思えました。

 一歩進めばゴールに一歩確実に近づくことだけを信じて歩き続けました。そしてゴール!多くの人達に支えられて制限時間内でゴールすることが出来ました。皆さん本当にありがとうございました。スタートからゴールまで木下さんは本当に大変だったと思います。ペースは速くなったり,とんでもなく遅かったりと,そんな中で時間や距離を正確に伝えてもらえ,とても感謝しています。頭も回らず皆さんにお礼の言葉を伝えることもできませんでした。
 そして八尾総監督の言われた肋骨の痛みを感じなくなるというのが本当だと実感できました。歩く前は我慢をしていくつもりでしたが、歩いている間、特に苦しくなってからは肋骨の事など思い出す余裕さえありませんでした。素晴らしいアドバイスありがとうございます。痛いとか大変だとか余計なことなど考えてはいけないのですね! 考えるのは"目標達成"だけだと!
 100km完歩した後で,もう歩けないと思っていました。前に50kmの練習の時にはこれ以上歩くことは出来ない気がしていました。限界は自分で作っていると感じました。目標以上には進んでいない自分に気が付いたのが大きな収穫です。

 今回の事でまた大きな自信をつけることが出来ました。どんなに厳しいと思える状況でも最初からあきらめることをしてはいけないということでした。やってみなければわからないよね! それと,体が動かなくなるより怖いのは頭が働かなくなることだということでした。体力の限界より思考力の衰えの方が怖いと本当に思いました。考える能力がある限りよくなる可能性があるということだと思います。    
 本当にありがとうございました。
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