« 前へ | トップページ | 次へ »

涙そうそう・・・

[ ]

ありがとうございます。メールを読ませていただきました。

『涙そうそう・・・』あふれる涙がなとまらない・・・なだそうそう・・

何年もの時間がかかり・・・それでも「なだそうそう・・・」

人が亡くなるのはあまりにも不自然・・・

******産経新聞********

森山良子さん 亡き兄に捧げた「涙そうそう」

森山良子さん 亡き兄に捧げた「涙そうそう」
「『涙そうそう』の歌詞のように、古いアルバムをめくって、亡き人に『ありがとう』とつぶやけるようになるまでには何年もかかるのでは」(篠原知存撮影)(写真:産経新聞)
【転機 話しましょう】森山良子さん

 東日本大震災で多くの被災者が家族を失いました。その喪失感を思うとき、歌手の森山良子さん(63)は、若くして世を去った兄のことが頭に浮かんで涙が流れます。悲しみ、痛み...。つらい気持ちを和らげてくれたのは、あの「名曲」でした。(竹中文)

 異常を感じたのは、埼玉県内のコンサートホールに着く直前だった。3月11日午後2時46分。乗っていた車が大きく揺れ、ホールから人が逃げ出してくる。翌日に歌手活動45周年記念公演を控え、この日はリハーサルを行う予定だったが、急遽(きゅうきょ)中止に。公演自体も延期となってしまった。

 テレビでは東日本大震災の甚大な被害が映し出されていた。大切な家族を失った人の喪失感を思うと、涙があふれた。同時に41年前のことを思い出し、胸がしめつけられたという。

 「何やっている。起きろっ」。昭和45年3月、東京都内の実家では、こんな涙混じりの怒声が響いていた。2階の部屋には、1歳年上の兄、晋(しん)さんが眠るように横たわっていた。しかし、息はない。叫び続けているのは駆けつけた10人もの兄の友人たちだった。

 「ただ呆然(ぼうぜん)としていた。兄貴がいないという感覚が取り込めなくて」

 当時は22歳。歌手デビュー4年目で、コンサートにテレビ出演...と休む間もない毎日。訃報は、そんな充実した人生のさなかに届いた。急性心不全による突然死。旅行会社に勤めていた兄は、前日まで元気だったが、翌朝布団の中で冷たくなっていたという。

 小中高と同じ学校に通った兄は、何でも話ができる頼れる存在だった。死の前年には、シングル「禁じられた恋」がミリオンセラーに。多忙を極め、家族から離れていく自分に、兄が亡くなる直前、一言だけ苦言を呈したのを覚えている。「お父さんとお母さんに心配かけるなよ」。家族愛の強い兄らしい言葉。これが最後の会話となった。

 1年後、大きな転機が待っていた。結婚し、長女も生まれたのだ。兄が大切さを諭してくれた「家族」を新たに持つことの喜びは大きかった。いずれは「家庭に入るため、歌はやめようと思っていた」という。

 しかし、老いた父と母を見て、心境に変化が生まれた。葬儀では、あんなに気丈だった母が、一周忌の席で声を上げて泣いたのだ。それに、ジャズ・トランペッターの父は、兄の遺体に「おいっ」と叫んだ日から、片耳が聞こえなくなってしまった。そんな両親に接し、「私が面倒をみなければいけない時期がきたんだ」と自覚したという。

 同時に、夫との仲もぎくしゃくし始めていた。ほどなくして別居し、実家で両親と同居する生活が始まった。子供と両親を抱え、どうすべきか。約1年間、出産前後の休みを経て出した結論は音楽活動の再開だった。

 その後は一家の大黒柱として、仕事に励んだ。夫とは数年後に離婚。さらに別の男性と再婚、離婚を繰り返した。

 親友や親にすら言えない悩みは、誰にも一つぐらいはあるだろう。それに生来の負けん気が邪魔をし、仕事でつらいことがあっても周囲に打ち明けることができない。そんなときは、どんな愚痴もじっと聞いてくれた兄を思った。大切な人を亡くした悲しみも、年月を重ねれば薄らぐものだ。が、兄だけは違った。時間がたつほど、存在の大きさを実感し、逆に悲しみが増していく。思い出すと、必ず涙がほほを伝った。

 きっかけは、1本のテープだった。平成9年、沖縄出身の3人組「BEGIN」から届いたメロディーは、ラジオの公開録音用として、自分で詞をつけて歌うために依頼したもの。中には、「涙(なだ)そうそう」と書かれたメモが入っていた。

 「沖縄の言葉で、涙がぽろぽろあふれて止まらない意味と聞き、兄貴を失った悲しみがこみ上げてきて...」。兄のことはいずれ歌にしたいと思っていた。その顔を思うと、自然に詞が口をついた。

 ●(=歌記号)古いアルバムめくりありがとうってつぶやいた...。

 兄への思いを素直に歌詞にのせることができた。曲が浸透すると、身内を亡くした人から「癒やされた」などと共感する声が多く寄せられた。自身も、この曲を歌うことで、兄への悲しみがようやく和らいだ。

 震災後の4月30日に行った東京公演では、BEGINと一緒に歌った。会場には、ハンカチで目頭を押さえる観客も。そういう姿を見てきて、改めてこう実感している。

 悲しみは分かちあえるんだ-。

 --急性いん頭炎で、昨年11月6日の山形公演など4公演が中止や延期になりました

 「音程が出ない部分が出てきて、本来の形で歌えなくなりました。山形公演の前々日ぐらいに事務所関係者に状況を伝えました」

 --活動休止中は、どのように過ごしたのですか

 「約2週間、マスクをして家族とも話さずに過ごしました。医者から薬をもらい、はり治療に通うなど、いろんな治療を試しました。次第に声は出ましたが、全身でエネルギーを伝えるように歌う自信はありませんでした。細々と歌うのは嫌なので引退も考えました」

 --復帰は11月20日の東京公演。早かったですね

 「長い間、指導してもらっているボイストレーニングの先生が、私の歌声を聴いたときに『まだまだ大丈夫よ』と認めてくれたので、自信が取り戻せたんです」

 〈もりやま・りょうこ〉昭和23年1月、東京都生まれ。42年1月に「この広い野原いっぱい」でデビュー。「さとうきび畑」など数々のヒット曲で知られる。平成17年には愛・地球博の開会式で、長男でシンガー・ソングライターの森山直太朗さん(35)が作曲した公式ソングを披露した。今年はデビュー45年目にあたり、全国を巡る記念ツアーを実施中。6月24日は福井市、同25日は岐阜市、7月17日は横浜市で開催。同27日にシングル「6つの来し方行く末/Verse~ほほえみに包まれて~」を発売する。

 

ご感想やメッセージを、コメントやトラックバックでお気軽にお寄せください。

トラックバック(0)

このブログ記事に対するトラックバックURL:

コメントする