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沖縄県立博物館も沖縄戦について学ぶ助けになると思います

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沖縄戦への子どもからの質問を母親よりメールで届きました。読ませていただきました。

東日本害震災で現在福島県より沖縄に非難しておられます。沖縄に住み,初めてこれほどの人が犠牲になったことを実感として感じたようです。

6月23日沖縄では「慰霊の日」として学校も休みですので当初驚かれたようです。

質問に簡潔に応えるのは難しいので,お母さんと親子で沖縄戦を調べてもらい子どもにも伝わるように話しました。沖縄県立博物館も沖縄戦について学ぶ助けになると思います。私は両親や祖父母より幼い頃より沖縄戦の残酷さを何度も聴いてきましたが,アメリカが悪いとか日本が悪いとか米兵がどうのとか日本兵が残酷とかそんな問題ではないと感じてきました。

一人ひとりはいい人でも戦争がそんな恐ろしいことをさせたのです。

どんなことが生じても人が人を殺すことをしてはならないことや,戦争によりどれほどの大事な一人ひとりの命が奪われることになったか・・・考えるていく必要があると感じています。

参考になる写真と資料をupします。

****本日届いた質問****

「どうして兵たいの人ではなくて子どもが戦争でころされたんですか?

おじいさんは子どもは戦争に行かないっていましたが,子こどもころされたって言ってました。」

********Okinawa's Landscape in the south.jpg 参考写真・資料********

ファイル:Okinawa's Landscape in the south.jpg 

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、主要な戦闘沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は6月23日に終るはずが3日早く6月20日に終了した。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]帝国陸軍はサイパンの戦いなどで行った水際防御を避け、ペリリューの戦い・硫黄島の戦いで行われた内陸部に誘い込んでの持久戦を基本方針として戦った。特に首里(現・那覇市の一部)北方で激戦となり、周辺空域では特別攻撃隊を中心とした日本軍航空部隊(陸軍航空部隊・海軍航空部隊)が航空総攻撃空戦)を行い、陸軍空挺部隊から抽出されたコマンド空挺部隊義烈空挺隊も投入され、海域でも戦艦大和」などの海上特攻艦隊と連合軍艦隊の間で海戦が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に連合軍は首里を占領し、日本軍は南部に後退したが6月下旬までに組織的戦力を失い、掃討戦は終戦まで続いた。

陸海空において日米の大兵力が投入され、両軍最高指揮官が戦死するなど第二次大戦における最激戦地のひとつであり、使用された砲弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾60,018発と手榴弾392,304発、ロケット弾20,359発、機関銃弾3,000万発弱が発射された[3]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では「鉄の雨」や「鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)」などと呼ぶ。[4]そのため、不発弾処理は主に那覇駐屯地陸上自衛隊第15旅団第101不発弾処理隊の手により、2010年現在も継続中である。

沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされる。沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、沖縄出身者が122,228人[5]、そのうち94,000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は12,520人で、負傷者72,012人であった。

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